2014.5.5 グランフロント大阪 かつて在籍した会社、ボクが編集長をさせてもらった女性誌HARBIVOで1994年から96年まで篠山さんとお仕事をする機会に恵まれた。創刊から一年、モデルに宮沢りえ、スタイリストに伊藤佐智子、ヘアメイクに野村真一、ADに長友啓典、撮影を篠山紀信というドリームチームで表紙撮影をやった。その時に篠山さんはじめ、時代の寵児たる面々の仕事ぶりを真横で見て、その所以を垣間みた。それは今の自分の仕事にもずっと生き続けていると思っている。
愚息が行きたいと言うので「篠山さんかぁ…、でもグランフロントかぁ…」と少々不安になりながらも一緒に付いていく事にした。
入っていくと三島由紀夫の有名な写真。なんだ?なんだ?と思ったらそこは”GOD"というカテゴリー。美空ひばり、きんさんぎんさん、勘三郎、などなど有名な人がバラバラに”亡くなった人”というひと塊で所狭しとオープニングに鎮座。その後「SPECTACLE」「STAR」「ACCIDENTS」(震災をアクシデントと要約するセンスに冷や汗が出た)「BODY」(ボディーって、篠山ヌードのそこしか見えてない証拠だな)という高校生並みのカテゴライズ。しかも会場は狭く、導線といえるストーリーもなく、コンセプトコメントも売れない広告マンのppt企画書のコメントみたいでクサい。あのDOUBLE FANTASYのヨーコ&レノンの有名な写真も微妙なトリミング(きっと許諾で揉めたんだと思われる)
大好きな篠山紀信ワールドが台無しの、作品性にそぐわない最悪な展示方法だったと思う。
それに、肝心の作品の大判パネル化にしては、作品のど真ん中から継いであったり、継ぎ目にしてももう少し何とか方法があっただろうに…と寂しくなった。
こういう展示をすると客が荒れる。「わぁ、この乳ええなぁ…」「何言うてんの、こんなん垂れてるやんか!」的な会話をカップルが平気で交わしている。お粗末な空気感が溜まらなく嫌だった。
ボクの中の写真家の二大巨頭は、ずっと篠山さんと荒木(経惟)さんだった。世代的なモノもあるだろうけど、その真反対な作品性においてそう思う。(なので森山大道の良さがイマイチよくわからん)
荒木さんはどんどんテーマを絞っていく。機材だって絞って行くのに対して、篠山さんはどんどん広げていく写真家だという事。だから今の日本をこの二人が双方向から撮ることに意味があると思っている。
篠山さんの”解放していく芸術性”の根源は、どうしたって天井桟敷にあったと思う。寺山修司との出会い、横尾忠則、そして三島由紀夫との出会いが、篠山さんにとって大きなビタミンだったに違いない。だからこそ、篠山ワールドにおける歌舞伎役者の作品はどれも浮世絵の構図を現代に蘇らせているように思う。そういうデフォルメされた非現実感という作風に加え、勘三郎さんや玉三郎さんを追い続ける作品は”ポップドキュメンタリー”だと思っている。リアルさがドキュメンタリーなのか?という問いかけを作品が物語っている。そして一連のディズニーランドや大相撲の大型の作品群。これはあの広角度による全ピンの妙。そして全ピンのどの顔を見てもオッケーカットという篠山マジックこそ芸であり技である。一方のヌードはじめ芸能人のポートレイトは、まさに”雑誌感”にその源泉がある。GORO連載の長友さんとの共作”激写シリーズ”やSPA!の”ニュースな女たち”は、その発表メディアが雑誌であることによる状況芸術だったと思うのだ。そして”サンタフェ”や”ウォーターメロン”は、そこから更に間口を拡げ、世論やニューズ感、あるいは社会規範への問いかけの芸術であった。そして東日本大震災での一連の作品は、今までの篠山ワールドを超えられた一瞬だったのだと思う。(だから同時に展示するという事が信じられないし、やるならもっとうまく編集しないとダメ)
要するに今展はそういう篠山紀信、シノヤマキシン、KISHIN SHINOYAMAの差異を何もわかっていない、”有名な写真家の、有名な作品を出来るだけ多く並べて、集客をはかろう!”という極めて土建屋的発想の”写真展ではない集客イベント”だったのである。
まともなキュレーターが存在したのだろうか?(居たら名前を出せ!覚えておくから)単にイベント業者がペペペッと作品展示したんじゃないだろうか?よく篠山スタジオがOKを出したものだとビックリした次第である。
篠山紀信の一見ポップな世界観の裏に潜む闇やテーマがボクは大好きだ。
チケットに刷られていたレノン&ヨーコのジャケ写にもなったツーショット、これは六本木にある篠山紀信スタジオのオフィスからスタジオに降りる階段に、オリジナルが大きく、そして優しく飾られている。スタジオエントランスの木漏れ日を受けてレノン&ヨーコは本当に寛いでそこに在るのである。そこを通るだれもが"写真のチカラ"を否応なく自然に感じられる。それが篠山作品の本質なのである。
本当の本物である篠山紀信を、キチンと展示してほしかった。非常に残念でならない写真展であった。